No.08「STROKES」

1942年名古屋市に生まれた作者の原 健は、もともと東京芸大の学部と大学院で油絵を学んでいた人です。第2次大戦後のアメリカを起点とした新しい抽象の世界にひかれていたらしく、それを我がものにしようと格闘していたに違いありません。ところが在学中に、著名な版画家・駒井哲郎らから薫陶を受け、油彩とは違う版画の魅力に目覚めたのでしょう。それを契機に彼は版画へと転じ、リトグラフやオフセットで数多くの作品を手がけていきます。そして1970年代以降、東京国際版画ビエンナーレや現代日本美術展、クラコウ国際版画ビエンナーレなど、国内外のコンクールで活躍を続け、いまや日本の版画界を代表する一人となりました。


しかし、油彩から版画へと舵を切ったものの、ここに掲げた東葛クリニック病院所蔵の3点が物語るように、抽象によって何かを表現しようとするその創造姿勢は微動だにしませんでした。たとえば人物や静物、風景を、どんなに技を尽くして描いても、未知の美に触れるような新鮮なときめきを覚えることも感じさせることもできない。そのように写生化された予定調和の世界に、自分は甘んじることはできないという信念が、ライフワークともいうべき連作「STROKES」を支える通奏低音となっているのではないでしょうか。東葛クリニック病院にある3点も、この作者独自の透徹した抽象美を存分に伝えてやみません。ボールがはねた軌跡を思わせる形態と、豊かなグラデーションをたたえた色彩とが織り成す抽象美を。このたった二つの要素だけを駆使して、まさしく作品ごとに千変万化する表現が生み出されたといってもいいでしょう。抽象といえば、とかくクールで堅苦しい印象を与えがちですが、この作者の手にかかると話は別です。どの画面にも、軽やかにはずみ、自在に動いてやまない生命感があふれ返っていて、それが見る側を、窮屈な檻から解き放たれたような、のびやかな心持ちに誘ってくれるからにほかなりません。そういえば作者がどこかで、このリズミカルな形態を「心音」、変幻する色彩のグラデーションを「成長」になぞらえていたことを思い出します。


作品解説:
美術ジャーナリスト三田 晴夫